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主任司祭のメッセージ Message from parish priest

『降誕祭に向けて』

2018年12月02日| 司祭 加藤 鐡男

 街のクリスマス商戦を盛り上げようとする軽快な音楽が耳に入ってくると、つい、真っ白な雪に覆われた丘から、シャンシャンと鈴の音を響かせトナカイに曳かせたそりに乗って、楽しそうに手綱をあやつって駆け下りてくるサンタクロースの姿が目に浮かんできます。

 それに比べると教会の降誕祭(クリスマス)の雰囲気は違います。厳かな中に静かに響くオルガンに導かれて、主イエスを象徴する赤ん坊の人形をおしいだいて司祭が入堂すると、暗い聖堂で小さなローソクを手に持った信徒たちの歌う聖歌で降誕祭のミサが始まるのです。

 毎年降誕祭を迎える度に思い出す出来事があります。それは、ある教会で年間の主日に作間彪神父が作った『或るクリスマスの出来事』という詩を取り入れて説教したことがありました。ミサに参列していた私と同年配の彼が、その詩を聞いて滂沱の涙を流していたのです。隣に座っていた未信徒の奥さんも怪訝そうな表情を浮かべていました。

 その詩は次のようなものでした。クリスマス・イブに、教会に背を向けていた老いた農夫が、暖炉で身を温めながら揺り椅子で「神が人間になったことなど信じるものか」とまどろみかけていた時、突然、窓ガラスに何かがぶつかる音をききます。それは、次々に雪が降る暗闇に、この家の灯めがけておし寄せる小鳥たちの群れだったのです。農夫はそれと気づき、納屋に電灯を明か明かとつけて扉を大きく開け放ち、干し草を蓄えた方に導こうと必死に呼びかけますが、小鳥たちは母屋の窓ガラスにぶつかってむなしく死んでいきました。「ああ、私が小鳥になって、彼等の言葉で話しかけることが出来たなら!」。農夫は気づきました。「神が人となられた」ということの意味を。

 涙を流した私と同年配の彼は、信仰の篤い地に生まれ、両親の為のミサをお願いしに年に数回教会に来ていましたが、幼い時に両親から培った信仰を守り切れていない自分を思った時に、この詩がまるで自分のことのように心の琴線に響いたのだと思います。

 私たちも、日頃の様々な誘いに負けていたことを反省し悔い改め、純粋な心を忘れずに、主の降誕を祝う準備をしっかりと行いたいものです。


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