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主任司祭より

『パラリンピックに想うこと』

2016/10/11 加藤神父


八月のオリンピックに続いて、いまブラジルでは障害を持つ方々のパラリンピックが開催されています。様々な障害を抱えながら各種の競技に挑む姿をテレビの映像で見せられると、人間には体の一部を失っても、それを補おうとする潜在能力が備わっていることを垣間見せられて、驚きを隠せません。生まれつき右肘から無い人、事故で片足、片手を失った人、目の見えない人などが、単独やチームで義足、義手を装着、或いは車椅子に乗って真剣に闘う姿は、目頭が熱くなるほどに感動します。そして、メダルを獲得した喜びに浸るその笑顔には、大いに拍手を送らずにはいられません。

さて、わたしたちは自分が健常者であることを神に感謝します。生まれてこの方事故にも遭わず、五体満足で暮らしてこられたことを大いに喜びます。しかし、人間は一年一年年を重ね、まだまだ若いと思っていた自分が、ある日突然自分がこんなに年を取ったのか、ということに気付いて愕然とします。自分の足は健脚だと自負し、どこまでも歩いて行けるように錯覚していたのに、歩くことが徐々に困難になっていることに気付きます。片足を上げて立ったまま靴下が履けたのに、今はふらふらして椅子に座らなければそれが出来ないことに寂しさを覚えます。背中が痒いとき、かつては自分の手であらゆる方向から指が届いたのに、今は「孫の手」を使用しなければ容易にできないことに歯がゆさを覚えます。人の名前が出てこず「あれ、あの人」で間に合わせることにも慣れて、いつの間にかそれが常態化しています。今朝、薬を飲んだかどうかも怪しくなったりします。

これらのことを未然に防ぐことに、神経を一生懸命注ぐ自分を思い出し、笑みを浮かべる時があります。そんな自分でも、若い時のように何事もスムーズにできなくとも生きていかなければなりません。どんな状態になっても不要な人間ではないのです。年を経ることによって積み重ねてきた知恵は、若い人にとっては大きな遺産になります。将来に不安を抱えながら生きる若者に、「大丈夫」と大きく構えて、その不安を払拭するのが年老いた者の務めです。

身体の自由はおぼつかなくなっても、心はまだまだ自由闊達で衰えを知りません。ますます磨きをかけて人々の奉仕に邁進しなければなりません。それがキリスト者としてのあるべき姿です。希望をもって生きて行きましょう。私たちの行うべき役目が、天に召されるまであることを確信して。

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