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主任司祭より

『わたしは世の光』

2017/03/07 加藤神父


 神は、恵み深く憐れみに満ちた方でおられます。

 毎月、『ニューズレター』の原稿締め切りが近づき頭を悩ます私に、その都度材料を示してくださり、わたしを安心させてくださいます。「そのときには、言うべきことは教えられる」(マタイ1019)とイエスは言われます。今月も正に、そうでした。

 人間にうっかりは付きものです。聖アガタの殉教記念日のミサが佳境に差し掛かる時でした。祭壇近くに座って参列していた信徒が、驚いたような顔をされました。口から出たのは「ロウソクに火がついていない」というものでした。すぐに香部屋から糸ロウソクに火をつけてきて、祭壇のロウソクに火が灯されました。それまで、司祭が入堂し祭壇の前でお辞儀をしていました。朗読奉仕者もその前でお辞儀をし、朗読を終えて席に戻っていました。その他に数人が参列していました。しかし、だれ一人として気がつかなかったのです。いつもの通り、準備は完全だと思っていました。それが、落とし穴でした。

 ところで、祭壇にロウソクを灯すのにはどのような意味があるのでしょうか。イエスは「わたしは世の光である。わたしに従うものは暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ812)と言われます。ちなみに「キリスト教におけるロウソクの使用には、機能的側面とともに世を照らす『光キリスト』、復活したキリストなどのシンボルとしての側面、聖人や聖遺物などへの表敬としての側面があると記され、2世紀頃から始まり、4,5世紀には定着したと言われています。」(『新カトリック大辞典』第4巻1440頁より)。また、ロウソクの炎には、炎が上に向かって灯っているように、祈る信者の願いが天まで届くようにとの心が込められていると言われます。「絶えず祈りなさい」(一テサロニケ517)、これこそが、イエス・キリストが望んでおられることです。

 いつも世を照らし、わたしたちの足もとをも照らして導いてくださる神に感謝をし、わたしたちのなすべきこと、話すべきことはすべて教えてくださるという神に信頼をおいて、従順を誓うわたしたちでありたいと願います。

 聖アガタの殉教記念日に、肉体に傷を負わせるような迫害の目にあうことはありませんでしたが、慢心に陥りやすいわたしたちの鼻っ柱をへし折り、気づかせてくださった神に感謝です。

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