ロゴ

主任司祭より

『聖金曜日の出来事』

2017/05/08 加藤神父


 聖なる過ぎ越しの三日間の聖金曜日は、年に一度ミサが行われない日であり、キリストの十字架上での死の記念日である。この日私のできることと言えば、義務はないが大斎・小斎を行うこと、また身を清めることぐらいと思い、伸びていた頭髪を刈ることにした。前頭部が終わり後頭部の首筋を刈っていたところ、電気バリカンの刃先が、首に懸けていた金の十字架のネックレスに噛んでしまった。

 このネックレスは、本来私のところにくるはずのものではなく、ある神父が二十年前本国に帰った際に、ある信徒に土産として買ってきたものだった。その方が、私の方が相応しいと助言してくれて、私の手元にきたものだった。女性用の小さな十字架で鎖も短かった。

 バリカンの刃先がまた噛んで鎖が切れるとまずいと思い、首からはずし洗面台の棚に置こうとした。眼鏡を外していたので棚に置けたと手を離したところ、鎖の三分の二くらいが垂れ下がっていたらしく、十字架のネックレスはまるで生き物のようにスルスルと洗面台の排水口に消えてしまった。聖金曜日の朝のあっという間の出来事だった。

 本来私のところにくるはずのものではなかったものが、手元から消えただけだと諦めて未練はなかった。人は、やがて神のもとに呼ばれた時には何も持って行くことができはしないので、徐々に物を減らそうと考えていた矢先のことだった。物欲を断つために、そのきっかけを神が下さったと思った。

 人には、物より大事なものがあるなどと教えるが、自分では何もしないと日頃から後ろめたいものを感じていたので、神様が聖金曜日に「主の受難」の中からこのことを悟るように、との計らいだったのではないかと思えたできごとだった。

 この話にはオチがあった。普通洗面台の排水管は曲がっており、その曲りの下部にキャップがあって、髪の毛などを取り出せるような構造のものがあることを、その瞬間思い出して、洗面台の下の扉を開けてのぞいてみた。相当な年代物らしく金属製でキャップはなく、おまけに水滴がついていた。どうしてだろうと管を外してみたら、あっという間に曲がりの部分が砕けてしまった。形あるものはいつかは壊れるものだという。これも神からの示唆だったのだ。

教会の日々

月別アーカイブ



ページトップ
MENU