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主任司祭より

『祝福された洗礼』

2018/08/06 加藤神父


ここ数か月の間に、二つの教会で三人の洗礼式がありました。それぞれに神に祝福された洗礼式でした。一人は、毎朝七時から行っているミサの中での洗礼式でした。その人が持っていた大型のメダイの聖人ベネディクトにちなんで、聖人の記念日に行われました。その喜びの挨拶の中で「時間がかかりましたが、やっとたどり着いた感じです」と言われておりました。
また別の一人は、札幌から一時間半ほど離れた町の施設で暮らす方でした。歩行が不自由で車椅子なしでは移動が困難な方でした。お姉さんと同じ信仰を持ちたいとの望みで、お姉さん夫婦と知人とが出席して、連願を皆で唱え、厳かに車いすに座っての洗礼式でした。穏やかなその方の顔から、晴れ晴れと清々しい心持ちが感じられました。
もう一人は病室での洗礼式でした。病気を通して妻と親戚とが信仰するキリスト教に自分も入りたいとの思いから、決心をしての受洗でした。奥さんは前から夫も自分と同じ信仰をもってくれたら有り難いと常々祈っておられました。その念願がかなっての嬉しい洗礼式には、娘、孫、親戚が列席しての式になりました。酸素マスクをしていて長い時間は無理なので水をかけて油を塗る簡単なものでしたが、それまでの長い道のりを考えると、列席者の心がこもったとても良い洗礼式でした。
これらの三人の洗礼式を行って、妻の洗礼の時を思い出していました。集中治療室で管をたくさんつけた妻に、神父を呼んで洗礼式をしていただきました。12歳で教会学校に通い41歳で洗礼を受ける、長い道のりでした。キリスト教についての勉強をすることもなく、快く引き受けて下さった神父から洗礼を受けて、その後家族全員が洗礼に導かれる先鞭を、病気の妻がつけてくれました。このことを思うと神はすべての人を呼んで下さって、勉強時間が短くとも教会に通う期間が短くとも、洗礼に導かれる長い道のりを考えた時には「そのままで、いいんだよ」と言って下さっているように思えるのです。
私たちはついつい自分たちの物差しで測ることばかりをしがちですが、神の物差しは私たちのものよりも特別製なのだということを、忘れない信仰生活にしたいものです。

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