主任司祭より

第13代主任司祭 加藤 鐵男 神父

生年月日  1947年2月21日
叙階の日  2008年4月29日
出身教会  釧路教会
洗礼名   ヨゼフ
趣 味   登山・写真・映画鑑賞

〈コメント〉
人に迷惑をかけて生きてきたので、今後は少しでも人のためになる事が出来たらという思いで司祭を目指しました。2016年、新司祭の叙階があり、後輩がやっと出来ましたが、札幌教区司祭としては若手です。
司祭職は奉仕職とも言われます。無から有を生じさせることを厭わないのが司祭職だと思いますが、人のやりたがらないことにも、果敢に挑戦する猪突猛進型の人間です。因みにイノシシ年生まれです。



『草刈〇〇』

2018/07/07


 「芸は身を助ける」という諺がありますが、芸ではないのですが、私が神学校に入って身につけた一つに草刈りがあります。一年目の栃木県那須町にあった神学校で、社会福祉法人の施設の人たちと作業をするうちに習得した「草刈り払い機」による草刈りの技術は、私の性格に合っていたのでしょう、仲間の誰よりも上手にできるようになっていきました。神学校の二年目、東京に来てからも、広い敷地内をほとんど私一人で草刈りを行っていました。ある先輩が揶揄と親しみをこめて、そんな私に「草刈正雄」ならぬ「草刈〇〇」と命名してくれました。
 その草刈りを五年ぶりにやる機会が巡ってきました。
 司祭には霊的生活と、みことば、秘跡、愛の奉仕という三種類の役務の実行が求められています(現代の司祭養成二六項)。教会敷地内の草刈りが愛の奉仕の一つにはならないかもしれませんが、少なくとも訪れる人、ミサに与かる信徒たちが心地よい思いで来ることができるのではないでしょうか。
 来てよかったと思って帰る、そんな教会であってほしいと願っています。もちろん外周りだけの問題ではありませんが、まずは花畑に花が咲いていて美しい、緑の庭が美しい、大木の新緑が美しいと感じてくれることが第一だと思います。そのために、私の「草刈〇〇」の異名と奉仕が役に立つなら、こんなに嬉しいことはありません。

『私のゴールデンウィーク』

2018/06/03


 近くにあってもなかなか行けない場所があるものです。時間の余裕ができて、なおかつ思いっきりが必要で、やっと行くことができる、そんな場所のことです。
 その場所とは石狩市の厚田区で、桜と港での朝市場が有名な場所です。
 札幌を出発して暫く経ち、何度も左に折れて厚田の街に入ります。4月にオープンした道の駅を目当てに、そこに続く道路の左側帯は入りきれずに待っている車が長蛇の列をなしていました。その列を横切り、いよいよ厚田の港が近づいてきました。岸壁の駐車場に車を止め、朝市場の店先の前に立ちました。十軒ほどの店先には、おばさんたちが日焼けした顔で出迎えてくれました。捕りたてのタコ足、旬のにしん、かれい、身欠きにしんなどが店頭にならびます。その価格の安いこと、テレビ番組で放映されていたとおり安いうえに「おまけ」までくれました。
「だれでも自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい。市場で売っているものは良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい。『地とそこに満ちているものは、主のものだからです』~あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を現すためにしなさい。」(第一コリント10章24~33節)
 いつも私たちに食物を与え、また自分を与えて、体も心も養ってくださる主イエス・キリストと、御父からの大きな愛と憐れみに、感謝の心を片時も忘れることなく天を仰ぎ見る私たちでありたいと、あらためて感じた一日でした。
 後日、ゴールデンウィークの仕上げに藻岩山の登山を行いました。無事に何とか登ることができて、この一年頑張れそうな気持になりました。
 いつもいただくたくさんの神の恵みに手を合わせ、感謝と喜びのうちに私のゴールデンウィークは終わりました。

『新しいひと』

2018/05/08


 先日、娘のことで半日産婦人科の病院にいることになってしまった。間もなく新米のお母さんになる女性やお父さんになる人たちが、いつ頃生まれそうだとか、これからのことを話しているのが耳に入ってきて、娘が生まれた時のことを思い出しました。午後8時頃には家内が病室に戻ってきました。家内もほっとしたのと疲れたのでしょう、眠そうにしているので、ゆっくり休みなさいと必要なものがないかを尋ねて、病院を出ることにしました。時計を見ると午後9時でした。外に出ると音もなく粉雪が、ゆったりと時を感じさせないかのごとく舞い降りていました。さほど降り始めて時が経っていなかったのでしょう。地面がうっすらと雪化粧していました。街灯のやわらかな灯りに照らされた、その地面を見た私は、未信者でしたが神さまがいるとすれば、子どもが生まれてくるときは、このように真っ白で純粋な、綺麗な心で生まれてくるのだということを教えてくれたように思いました。
 復活節の最中の今、自分の洗礼の時を思い出し、「それまでの古い自分に死んで、新しく生まれ変わった」、つまりは復活した自分を思い起こし、体も心も綺麗にしてくださった神の大きな愛、恵み、あわれみに感謝したいと思います。同時に、これからもあなたを信頼し、従っていきますという決意を、一人ひとりが確かなものとして歩んでいくことができますよう願ってまいりましょう。